「でもね先生、待てども来ない便りと謂うのも有るでしょうに」
硯の中をぎいぎいと掻き混ぜて益々黒く成っていく墨に毛先を濡らしていた。
黒い珠を半紙に滴らせて、其れを芸術だと謂う。
「私だって、そりゃあ、何度も謂いたくは無いんですけど」
其れを至極丁寧に折り畳んで開くと酷く不恰好な鶴が生まれた。
墨の染みた指先が黒く汚れて触れた彼方此方に印が付けられて行く。
「巧いものだろう」
生まれたばかりの鶴は親の手によって空に放り投げられた。
柔らかな其れは地に墜ちてくしゃりと音を上げた。
「鶴は飛ばないものだったかな」
鼻先の潰れた鳥に一瞥さえ投げずまた新しい雛が生まれた。
間も無く彼も空を旅して墜ちるのだろう。
「飛びますよ、でも、飛ばされるものじゃあ有りませんね」
墜落した鳥たちを拾い上げると未だ乾いて居なかった墨がひやりとしていた。
黄土色に日焼けした畳に薄らと黒い染みが残る。
「来ないなあ」
「来ませんよ」
何も無い庭がじとりと濡れて砂利と土の色を濃くしていた。
どうやら雨が降ったらしい。
「鳩だったら、どうだろうか」
突然そんな事を言い出すものだから、鳩ですか、と鸚鵡返しに答えた。
三日振りに雨が止んだ日だった。
「鳩だよ、伝書鳩と謂うのが、有るだろう」
愉しそうにそう言って喉を震わせて笑っていた。
其れに倣って笑ってみたが別段愉しい訳ではなかった。
「飼う心算ですか、鳩を」
墨の固まって仕舞った硯が未だ机の上に有った。
後で洗わなければ成らないだろう。
「それも良いと思うのだけれど」
庭には何も有りはしないし、無理ではない。
但し無駄には成るに違いない。
「鳩も、無い手紙は届けませんよ」
ふと見降ろした足元に黒い染みがあった。
拭いて置くのを忘れて仕舞ったのだと気付いた。
「今日も来なかったなあ」
「明日も来ないでしょう」
硯を洗う水がとても冷たかった。
雨は止んだのだが、代わりに雪が舞っていた。
「先生、今日の郵便が届きましたよ」
外には融け損ねた雪が残っているが、暖かな日だ。
遠くで鶯の鳴くのが聞こえる。
「あれは有ったかい」
もう何年も続く遣り取りだった。
変わった事と謂えば固有名詞が代名詞に成った程度である。
「有りませんよ」
雑草が伸びて緑の増えた庭に猫が一匹来て居た。
昨日出汁を取った煮干しを持って来てやろう。
「じゃあ、残りは君の判断で捨てて貰おう」
其れによって捨てられなかった郵便が束に成って机の端に有る。
どれも封を切られないまま唯の置物と成って仕舞った。
「何時まで待てば良いのだろうか」
「きっと待つのを止めた頃ですよ」
変色した束の一番下に其れは有った。
2010年新歓。
確か携帯で書いたものです。短いね。
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