早朝から降り続いている雨が、窓ガラスを塗り潰すように流れていった。
貴重な薪を惜しむ事無く暖炉にくべた暖かい建物に女は男を招き入れ、男はそれに従った。
「助かったよ、ただでさえ寒いっていうのにこの土砂降りじゃあ」
凍え死んじまう所だったな、と男は自嘲に近い微笑みを見せた。
「これも、神の思し召しなのでしょうね」
籠いっぱいに乗せたパンを男の前に置いて女はそう答えた。


雨は空から止め処無く零れ落ち、男は深夜の街を彷徨い歩いていた。疲労、空腹、寒さ、それらが体力を奪っていく。衣服が雨を吸い込んで重くなっていく。それでも、適当に民家や店に転がり込む訳には行かなかった。勿論、警察にも。
そして、男は街の外れにある古びた教会の扉を叩いた。そして女に出会った。神に仕えているという女はひとり、教会で祈りを捧げていた。


教会の脆い屋根を雨粒が叩く音が薪の爆ぜる音と重なった。
「申し訳ないが、俺は神なんて信じない人間でね」
「でも、貴方は此処に来たわ。無意識に、神に縋って」
女は諭すように言葉を紡ぐ。その首から下げられた銀色の十字架が揺れた。
男は呆れたように大袈裟な溜息をひとつ吐いて、首を左右に振った。
「俺が縋ったのは、神じゃなくて人間だったんだがな」
「今からだって神は貴方を受け入れるわ。神は他の何よりも慈悲深いのよ」
「神様ってのも中々儲からない職業だな。都合の良い時だけ頼られちゃあ」
男は話半分に適当な相槌を打つ。その眼前に一杯の葡萄酒が置かれた。
「召し上がれ。貴方にも神のご加護が有りますように」
女はそう言って顔から胸元に掛けて十字を切る。簡易式のサクラメントの様なそれに男は顔をしかめながらパンを千切った。
「人肉嗜食の暗示は止めてくれないか」
「実体変化はそんな反社会的行為とは違うの、神との身体の共有。素晴らしい事じゃない」
「反社会的、ね」
身体の共有という目的による聖体へ変化したものの“拝領”と、死者との永続的関係を求める為の人肉嗜食に何の違いがあると云うのか。
男はそう言い掛け、けれどそこで言葉を留めた。

雨が次第に激しさを増し、時折隙間風とともに入り込んでは教会の床を濡らしていった。拝領を暗示された食事を終え、女は神の教えを淡々と説き始めた。
蝋燭に灯された橙色の光が女の横顔を、男の瞳を、錆びた銀で出来た磔の聖者を照らす。もう音楽を奏でる事を忘れてしまったオルガンのパイプに女の声が反響する。
 信者の犯したすべての罪を、神は懺悔をもって贖罪とする
 神は万物に対し慈悲深く、信じる者は救済される
男が見た女の瞳は、其処に存在しない『偉大な』神を見つめていた。
「さぁ、祈りましょう貴方も。貴方のこれまでと、これからの為に」
差し伸べられた女の手。聖痕さえ見られないその白いてのひらを、男は右手で払い退けて笑った。
「言った筈だ、俺は神なんて信じない」

神鳴りが落ちる。暗い空を一瞬青白く照らす。裁きのように。
「あんたの大好きな神様に聞いてくれよ。俺があんたを殺しても、俺は許されるのか、或いは、」
男は乾きかけたジャケットのポケットからナイフを取り出して、言った。
「あんたが神に命乞いすれば、神の慈悲とやらで助かるのか、さ」
革のカバーが床に落ちる。剥き出しの切先に女の顔が見えた。
「本当に馬鹿な女だな」
男が瞳を細める。女は気付く。その凶器は、微かに赤黒く染まっている。
「殺人犯に、カミサマのオハナシなんて」
ひやり、女の首筋を汗が流れる。殺される、殺される、ころされる。
「あんたが死ねば神なんていない。いない神に祈りなんていらない、そうだろう」
助けた男に、神を無視する愚者に、なぜ、わたしが。
「ふざけないで、」
「神を信じるんじゃなかったのか、随分と薄い信仰だったんだな」
女の言葉を遮って、男がまた笑う。震える足、近付いて来る男、光るナイフ。
女は首の十字架を握り締め男を睨んだ
「神は、神は信じる者を救うわ。きっと」
ずるりずるり、何とか足を引き摺って後ずさる。男は笑みを浮かべゆっくりと近付いて来る。そして遂にその足は止まる。後ろには大きなテーブル。布巾の掛かったパン籠ひとつ。
「神の虚像にしか縋れない哀れな女め」
自らに向かって煌めく切先の軌跡が、何故かゆっくりと流れていくように見えた。


雨は次第に穏やかになっていき、そして霧雨となって地面を覆っていた。
古びた教会の中に、二人のひとがいた。
血を流して倒れたひとと、凶器を持ったまま笑ったひと。
倒れたひとは生きるのを止めて、笑ったひとはこう言った。
「貴方をころせと、神が仰ったの」
 神にさえ縋れない愚かな男に安らかな死という慈悲を
ひっくり返ったパン籠に、小さな拳銃ひとつ。掲げて引いた、神の引き金。


霧雨が雫となって腐食した屋根から零れ落ちた。
女は祈っていた。
跪き、十字を掲げて、来る日も、来る日も。
神の御前で犯した罪を告白し、許しを乞うて、祈り続けた。
小さな鉛に左胸を貫かれた男の身体が、形質を変え始めても。
むしろ愚者の抜け殻など、腐敗させて仕舞った方が良いさえ感じていた。



 そして、数日振りにからりと晴れた日の、午後。
古びた教会の戸がまた叩かれた。
中年の穏やかな顔で、けれど瞳だけが鋭い男と、まだ若い長身の男。
何度も何度も戸を叩く音と女を呼ぶ声がする。
しばらくして、閂の無い戸が開かれる。若い男が小さく呻く声が女の耳に届いた。
「御勤め中に申し訳ありませんがね、ミス・ニコルソン」
そう中年の男が言って、腐臭の充満した教会の中へ入って行く。
若い男も大きく深呼吸してそれに続いた。
ただひたすら懺悔だけを行っていた女の顔はやつれ、神を仰ぎ見た瞳は虚ろに濁っていた。
「珍しいお客様ね。国家に噛み付いて神へと主を変える心算かしら」
力の無い声。それでも女は立ち上がって二人の男に向き合った。
「国家の犬も、神の僕も、同じようなもんですよ」
若い男が反論を始めるのを中年の男が手で制し、代わりに自分で言葉を紡ぐ。
「残念ながらそういった考えは今のところありません。もっと大事なお話をしに」
「信仰よりも大事な事なんて私にはないわ」
「だから、話があるのは俺達なんです」
 不機嫌そうに若い男が答えて書類を一枚、女の眼前に突き付ける。女はそれに一度視線を合わせてからすぐに中年の男の方を見た。
「此処、もう立ち入り禁止になっているのご存知でしょう」
「ええ」
「立ち退きの、お願いに来たんですが」
 お話することがもう一つあるみたいですよ、と若い男は白い骨が露出し始めた肉の塊を指さして呟く。それはもうヒトとして扱うには難しい程の在り様になっていた。
「新しい教会だってあるのに、何故こんなところに」
「あそこに神はいないからよ、あんな所に降りる神なんて居る筈がないもの」
 女は語尾を少し強めて答えた。まるで、自分に言い聞かせるように。
「誰がどう考えたって汚い家より奇麗な家をひとは好むでしょう。神様はその逆だとでも言うんですか」
 若い男が首を傾げて疑問を投げかけた。当然の質問だった。
けれど女は見下すように笑いかけ、質問を返した。
「貴方は、無神論者なのかしら」
「慣習的なものには従っていますが、貴女ほど強く信じてはいませんね」
 気休めにもならない程度です、と正直に答える男に女は溜息で応じた。何故、こうも神を軽んじる人間ばかりがこの聖域に足を踏み入れ、そして荒らして行くのかが女には理解し難かった。
「権力に溺れた国家の飼い犬には解らない話かもしれないわね。神は弱者の味方だからよ」
「我々だって、弱者の味方ですよ。大体、何故新しい教会が弱者の味方になり得ないと言えるんですか」
 中々核心に迫らない女の物言いに半ば苛立ちながら男は先を促す。
「あそこは、汚い思いが集まって出来た建物だから。汚い金で建っているから。」
「汚い金って、税金で政府が建て直した教会ですし、こんな外れの寂れた教会と違ってミサにも通いやすいと、」
「それが、汚いと言っているの」
 何とか正当性を訴える男の言葉を遮って、女はそう切り捨てた。
古代の人間は命賭けで聖地に赴いていたというのに、人間の勝手な都合で神の住居を勝手に変えるなど、と。
「ひとが集まれば自然とそこには物資と金が集まる。そんなもの、教会には必要ないのよ」
 その言葉に、若い男は口を閉じて俯いた。教会の立て直しが間違った行為だとは思っていない。
しかし、教会が犯罪の温床になりうる可能性が決して低いものでない事も事実だった。
それを見て中年の男が会話を引き継ぐ。
「では、此処を立ち退く心算はないという結論でよろしいですか」
「当然よ」
「ならば、仕方ないですね」
 若い男が目を見開く。女はそれを横目で眺めて満足そうに一度頷いた。

 所々割れた窓ガラスから西日が射して、いつかの?燭の灯のように世界を橙に染めていた。
「では、もうひとつのお話をしましょうか」
 数日前はヒトだった腐肉に近付き、その顔と見られる部分を一瞥する。若い男が床に転がったナイフを、手袋を嵌めた右手で掴んで回収した。
「このひとは一体、」
「神を試すために私を殺すと、仰ったものですから」
 女は男を撃った銃を自ら二人の刑事に手渡した。この腐肉の元は殺人者であった事を、この二人は気付くであろうか。誰も告白することがない罪の存在を。
握った拳銃は、あの夜持った時よりも重い気がした。
「我々と一緒に来て詳しい話を聞かせていただけますかね」
 手で教会の外を示し、外へ出るよう促すと、女は首を振ってそれを拒んだ。
「私は、此処で神の赦しを得なければいけないのよ」
「聞いてくれない懺悔を神様にするより俺達に真実を話した方が貴女だって救われると思いますよ。このひとが貴女の生命を狙った結果がこれなら、貴女の罪は変わってきますから」
 ぼろぼろになった服を纏う女の肩に自分の上着を掛け、若い男が口調を和らげて言う。
「貴方は、いいえ、貴方も。神が私を見捨てるとでも思っているの」
「さあ、どうでしょうね。ただ俺にとっては、神より上司の方が偉大なもので」
 声を荒げる女とは対照的に、若い男は冷静に答えを返した。

 女が久し振りに見た空の色は群青色が橙色を飲み込み始めた夕暮れだった。
中年の男を振り返り、ひとつ質問を投げかけた。
「貴方も神なのかしら、私を神の下から連れ出すなんて」
 男は相変わらず瞳だけ鋭い顔で言った。
「まさか。我々は貴女の言う神ほど慈悲深い生き物ではありませんから」
 貴女がするべきなのは、法の裁きを受ける事ですよ、と男は諭す。
それに続けて若い男が安心させるように柔らかく言った。
「ただ、貴女の罪を和らげる事くらいならできますよ。それは懺悔じゃなく証言と我々は呼んでいますが」
それらの言葉に女は頷き、若い男の誘導に従って歩いていった。
その表情は何故か晴れ晴れとしているように見えて、自然と肩から力が抜けていく。
男の瞳から珍しく鋭さが消えたのを見た者は残念ながら誰もいなかったが。

「明日も晴れるかな」
 広く高い、群青の濃くなった空を仰いだ。



 それからまた数日経った土砂降りの日。
あの愚かな男を女が撃ち抜いたのとほぼ同じ時刻。
女は独房で首を吊った。窒息という死因からは想像も出来ないような、綺麗な表情だった。
腐肉と化した男の罪は、神のみぞ知り、女は何も語る事なく。
神の御許から御告げが届いたとでもいうのだろうか。こんな薄暗い部屋に。
女の右手には、あの時無かった傷跡ひとつ。聖痕がそこにあった。

 あの日、沈みかけた夕日の下に出た女の表情は確かに、狂気の神の冷たい呪縛から解き放たれたように見えたというのに。
小さな窓から見える灰色の空を見上げて、若い男は言葉を吐き捨てた。
「これが神の答えですか」




あぁ、神には届いていたのであろうか
まあかい涙、流すは愚かな女のひとみ
おわる儚き命を捧ぐ、誰が望みし礎か
とわに響くは、懺悔か祈りか叫ぶこえ



2008年夏号。処女作ですね。
趣味に走りすぎ。あと厨ルビが多い。ハズカシー

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