マリーが鍋に蜂蜜と砂糖を入れると一瞬にして甘い香りが魔法みたいに部屋の全部を包んだ。僕が綺麗に磨いた林檎は鍋の中で皮を剥かれ糖蜜が絡まってもう他の林檎と同じものになってしまった。少し前まで鈍く光っていたつやつやの林檎。僕の磨いた皮はそこになかった。

「ねえマリー、皮は捨ててしまったの」
換気扇がごうごうと音をたてて回る。僕は何時もより少し大きな声を出して訊いた。鍋の底がこつこつ鳴くのが聞こえた。マリーは火を弱くしながら僕の方を向いて答える。

「ええ、だって、林檎の皮は消化に良くないのよ」
マリーが一度視線を遣った先には割った卵の殻や野菜くずの上に落とされた赤い林檎の皮があった。きっとあれは僕が今朝磨いた内の何個か。昨日果樹園の小父さんが売り物にならないからとくれたのだ。でこぼこだったり小さかったりはしていたけれどとても綺麗な色だった。でも今はもうただの生ごみ。

「林檎磨きも、程々にしなさいね」
僕の頭に手を置いてマリーが言う。両方の意味よ。と付け足して。マリーだけじゃない。何人かそう言った人がいた。僕には意味がわからなかったからただ首を縦に一度倒した。

 「説教じゃパイは焼けないよマリー」
 鍋に放り込まれなかった僕の林檎を齧りながらウィリアムが顔を出す。果実に貼り付いたままの皮は流れた果汁で濡れて綺麗だった。だから僕はいつもそのまま食べるのが良いって言っているのに。でもウィリアムがマリーのパイが食べたいと言ったから。まだ白いままの生地に並べられた林檎は透明な飴色。僕はシナモンをたっぷり入れた方が好きだけれどウィリアムはそれが嫌いだからいつもパイは林檎と糖蜜の匂いだけだった。

 「少し、遊んできたらどうかしら」
細く伸ばした生地で格子模様を作りながらマリーはそう提案した。僕とウィリアムは頷くと一緒に外に出た。読みかけの本を机に置いてきてしまった。


 いつもの遊び場でウィリアムは今日も弓を構える。表面を削って的を書いた大きな木に鉄の矢が刺さる。ウィリアムは弓の名手だ。初めて会った時とても上手にうさぎを射ったから僕がウィリアム・テルみたいだと言った。それから彼はウィリアムでそれまでの彼の名前を僕は知らない。僕以外に彼をそう呼ぶ人間はいないけれど僕に以前の名前は必要ないから僕にとってだけ彼はウィリアムでウィリアムという名前の彼を認識しているのは僕だけだった。

「動かない的は、つまらないな」
 少し歪んだ赤丸の部分に刺さった矢を引き抜いてウィリアムが言う。けれどうさぎを探しに行くには遅い時間だった。所在のない手を鞄に突っ込むと小さな林檎が一つ入っていた。それを掴んだ僕はいつの間にか伸ばした袖で軽く擦っていた。

「もう十分磨いてあるじゃないか」
僕の手元を覗きこんでからウィリアムは僕の隣に腰掛けた。まだだよと答えてまた擦る。磨いた部分を違う場所と交互に見せると感嘆の声。僕は誇らしくなってくすんだ部分をまたぎゅうぎゅうと磨いた。僕が磨く。ウィリアムに見せる。いつもと逆だった。

「僕がやると傷になるから、駄目なんだ」
ぴかぴかの林檎を回して眺めながらウィリアムが僕にそう言った。あんなに弓が上手なのに。でもウィリアムの林檎は僕が磨くからそれでいい。ウィリアムが弓を射るのと同じくらい林檎磨きが上手だったら僕はもう彼の林檎を磨けなくなってしまう。

「ウィル、ウィルの林檎は僕が磨くよ」
僕は愚図だから林檎を磨くくらいしか出来ないけどそれも出来なくなったらきっとウィリアムは僕が要らなくなる。ウィリアムの林檎を磨くのは僕だ。その権利はウィリアム自身にもあげられない。僕は真面目な気持ちで言葉を発したのにウィリアムは声を上げて笑っていた。

「パイがそろそろ出来る頃だ」
ひとしきり笑った後ウィリアムが立ち上がる。僕も慌てて埃を払って鞄を持ち上げた。綺麗に磨いた林檎は布で包んで鞄の中。来るときよりもほんの少し早歩きになっているウィリアムに置いていかれないように僕は小走りでついて行く。

「皮のままのアップルパイが作れるかマリーに訊いてみようか」
「でも皮は消化に良くないって言ってたよ」
「僕はいつもそのまま齧ってる」
「汚れてるかもしれないし」
「だからお前が磨くんだよ」
息が切れて言葉が途切れ途切れになる。ウィリアムの足が少しだけ遅くなった。手首を掴まれて引っ張られるように歩く。はやくはやく。また早歩きになる。息は苦しいけどウィリアムが急いでいるから僕は出来る限りの速さで進む。マリーの家の玄関は林檎と糖蜜の甘い匂いでいっぱいだった。



2009年夏号。
本当はドロドロバッドエンドのはずだったのに。
どう見てもホモショタです本当に以下略。
『ごますり』のことを英語では林檎磨きというらしい。

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