アルトーは料理人だった。大して特徴もない腕もない技術もない。街の外れにある彼の小さな店で閑古鳥が鳴かない日もやはりない。ないもの尽くしの料理人だった。
 ミュリエルは歌手だった。大して特技もない声量もない人気もない。街の真ん中にある大きな劇場に空席がない日もやはりない。ないもの尽くしの歌手だった。
 ロジェは付き人だった。大して特技もない声量もない人気もない、ないもの尽くしの歌手のないもの尽くしの付き人だった。
 その日はとても良い天気だった。青い空に雲はなかったが、白い鳩が飛んでいた。


 閑古鳥は今日も飽きずに鳴いている。アルトー自身が食べる分よりも少しだけ多めに作ったポトフーが鍋の中でことこと煮込まれていた。蓋を開けた途端に広がる野菜とコンソメの香りにアルトーは大きく頷いた。今日のスープは彼の中では上出来だった。
 滅多に人を支える機会を持たない椅子たちを並べて机を拭く。窓を開けると心地良い朝の風が入り込んで来た。窓辺に飾った観葉植物の艶やかな葉が風に揺れた。
 いつも通りの朝に、いつもと違う音が鳴った。入口に提げたベルの音だった。
 「すみません、まだ準備中ですか」
 がらんとした店内と、その中央に立っていた店主を見て、ドアを開けた男性がアルトーにそう尋ねた。客は二人。背の高い男性と可愛らしい女性だった。
 「いえ、ちょうど今終わったところです」
 いらっしゃいませ、と続けてアルトーは窓際の席へ二人を導いた。殆ど新品のメニューを拭いたばかりの机に広げる。メニューと言っても、彼が作れる料理の数は口頭で品目を挙げるだけでも十分な程度しかない。
お勧めは、と尋ねた男性にアルトーは先程具合を見たポトフーを挙げた。
「ポトフーって、何が入っているのかしら」
半ば独り言だった女性の呟きには、キャベツとニンジンにジャガイモ、それから豚肉とレンズ豆。それらをコンソメで一晩煮込んだ物を用意しています、と毎日練習している通りに答えた。

アルトー自身が食べる分よりも少しだけ少なめになったポトフーの鍋を覗き込んで彼はにこりと微笑んだ。久々の来客だった。ニンジンが苦手だと言った女性、ミュリエルは町の劇場に立つ歌手で、少し量を多めにして欲しいと言った男性、ロジェは彼女の付き人なのだと聞いた。
「でもね、全然凄くなんてないのよ」
ミュリエルはアルトーが予め皿からニンジンを除いてくれた事に感謝した後でそう言った。隣の机から引っ張って来た椅子に腰掛けて、アルトーは彼女らの話を聞いていた。
「チケットなんて数えるくらいしか売れないし席もがらがら、最後まで残ってる人なんて殆どいないんだから」
アルトーはそれを大袈裟な冗談だと思ったが、ミュリエルとロジェはそれが事実であることを当然知っている。自分にオペラは向いていないのだと彼女は笑った。
ミュリエルは歌うことが好きだった。流行り歌を口ずさむことが好きだったし、即興で作ったメロディに感情を乗せて歌うことも好きだった。自分の思うように歌うのが好きだった。それに比べて、オペラは窮屈だと思った。得意な歌が歌えなかった。
「オペラも嫌いじゃないけど、ちょっとだけ憂鬱」
そう言ったミュリエルの声は幼い子供の様に高く愛らしくて、芸術に疎いアルトーも確かに彼女の声はオペラ向きでないかもしれないと感じた。

「ところで、このポトフーだけれど」
切り替えられた話題にアルトーは思わず背筋を正し、はい、と答えた。
アルトーの腕では上等の出来だった。けれど元々彼は一流のホテルでシェフをしていた訳でも、高名な師の下で修業をした訳でもない。ただ両親や知り合いから伝えられたり独学だったり、その程度の経験と実力しか持っていなかった。味が悪い訳ではなかったが態々店に来て食べる程でもない、と良く言われた。だから今日もそうなのだろうと思った。
「美味しいわ、実家に帰って来た気分」
ニンジンも抜いてくれたし最高、と続いたミュリエルの言葉にアルトーは一瞬だけ目を丸くして、けれども直ぐに笑って感謝の言葉を述べた。
「豚肉も、大きい塊なのにすごく柔らかくて」
ミュリエルのステージに関しては何も口を挟まなかったロジェも明るく答え、それから彼の実家ではレンズ豆は入れなかったということも追加した。
ロジェは田舎町のブドウ園で育った。冬に備える為に買い出しをしようと立ち寄った町でミュリエルに出会った。秋も終わりだという時期に一人薄着でチケットを売る彼女を見付けた。彼は彼女の最初の観客だった。それから彼は、彼女を支えようと決めた。
「御馳走様でした、本当に美味しかったです」
深々と頭を下げたロジェと大きく頷いて同意したミュリエルにアルトーはありがとうございましたと返し、入口の扉を開いた。数刻前と同じようにベルが鳴った。
「あんな話しておいて何だけど、良かったらこれ、受け取ってもらえるかしら」
どうせ余ってるんだし、とウインクしたミュリエルが差し出したチケットを、アルトーは喜んで、と両手で受け取った。


それはアルトーにとって初めてのオペラだった。確かにミュリエルが言った通り観客は少なかったし、その少ない観客さえ徐々に減っていく始末だったが、演目が終わりミュリエルが最後にポーズをとった時彼は誰よりも早く立ち上がり誰よりも大きく拍手をした。
白い光を浴びて微笑むその人物は間違いなくミュリエルであるのに、まるで別人のような雰囲気があった。彼女の歌声には鳥肌が立った。周りの人々がぽつりぽつりといなくなって行くのが理解できなかった。
「素晴らしかったです、あまり詳しくありませんで、月並みの感想しか言えませんが、本当に」
特別に通された控室で、アルトーはまずそう始めた。服も化粧も舞台の時と同じミュリエルはもう店で会った時の彼女だった。ロジェが二人に椅子と飲み物を差し出した。
「拍手ありがとう、嬉しかったわ」
ドレスの裾を摘み、小さく膝を曲げる仕草はその一瞬だけまたミュリエルを舞台上の違う人間に見せた。
それから三人は数分だけ会話を楽しんだ。アルトーは二人に、この後時間があればもう一度店に来てほしいと伝え、二人は着替えと片付けが終わり次第必ず、と答えた。
以前本で見た事があった一皿を、アルトーは思い出していた。


店に着いてまずアルトーは薄いガラスの器を冷凍室に入れた。それから冷凍したラズベリーとシラップに漬けた白桃を探した。
ラズベリーを凍ったまま鍋に入れて甘く煮詰め、ある程度粒の残ったソースにした。この辺りで扉のベルが鳴った。アルトーは厨房から顔だけ出して適当に座るよう二人に言った。
冷やした器にバニラアイスと四等分した白桃を盛り付けて中央にたっぷりとラズベリーソースをかけたら最後にミントの葉を飾る。その出来は朝のポトフーよりもアルトーを笑顔にさせた。

「お待たせしました、どうしてもこれを召し上がっていただきたくて」
小さなガラスの器のデザートを見るなりミュリエルは可愛い、と声を上げた。ロジェも綺麗ですね、と微笑む。二人の前に器を運び、一度咳払いをしてからアルトーが料理の説明を始める。
「エスコフィエという一流のシェフがいました。彼は当時のプリマドンナと呼ばれたオペラ歌手の為にこのデザートを作ったと言われています。その歌手の名前を取って、ピーチ・ネルバと名付けられました」
へえ、とロジェが感嘆の声を相槌代わりに漏らした。ミュリエルもバニラアイスを掬いながら何度か頷いた。一呼吸開けてアルトーは続きを紡いだ。
「ですからこれはピーチ・ミュリエル、と。そう呼ばせていただこうと思います」
素敵、とミュリエルが声を上げる。格好付け過ぎですね、とアルトーは頬を掻いてロジェもそうですね、と笑った。
「妬かないのよ、ロジェ」
ミュリエルの一言に笑い声が大きくなった。


相変わらず閑古鳥の鳴くアルトーの店に、大きなグランドピアノが運び込まれた。それからマイクスタンドとスピーカー。内装も変えて、少し落ち着いた店内にミュリエルとロジェの姿があった。
重い鍵盤を指で押したり譜面台の角度を細かく調整したりしているロジェの隣でミュリエルは電源の入っていないマイクを持って歌っていた。窓の外ではアルトーが新しい看板を何処に掲げるかで頭を悩ませていた。これからは三人で店を作っていくのだから、格好良い場所に飾りたかった。
 

 その日もとても良い天気で、そして素敵な一日だった。
 アルトーは故郷を想うことができるような料理を。
 ミュリエルは違う世界に引き込まれるような歌を。
 ロジェはミュリエルの歌声を支えるような演奏を。
 ないもの尽くしの三人に、そんな夢が出来た。



2010年夏。
ドイツ(マヨヒガ)、イギリス(アップルパイ)ときたらフランスだよねってことで。

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