大きな国のどこかに、小さな村がありました。大人がいて、子供がいて、家があって、畑があって、そしてそこには、森がありました。
その森は人間を愛していましたから、いつでも隣人たちをおもてなしできるように季節ごとの様々な果実やどんな怪我にも効く薬草などを貯えて彼らを見守っていました。
けれど、お日様がこうこうと世界を照らしても、稲妻がぴかりと輝いても、顔色を変えず真っ黒い口をがばりと開いたままの森の姿は人々に恐れられ、そしていつしか様々な噂が流れました。
例えば、お腹を空かせた人喰い狼に頭から噛み砕かれてしまうとか、気紛れな魔女の素敵なドレスに変えられてしまうとか、巨大な植物に体中の栄養を吸い取られてしまうとか。
可哀想なその森は大好きな人間に嫌われた悲しみに木々をざわざわ揺らして泣きました。そしてまたその音に人々は身を震わせるのでした。


フレッドは森の入口に立っていました。ほんの少し風がそよいだだけなのに、擦れ合う葉の音は大袈裟に響いて彼の決意を削いでいきます。けれども彼はありったけの勇気を振り絞って恐ろしい森の中へ進んで行きました。なぜならケーゼはきっとこの森の何処かで彼を待っているのですから。
ケーゼというのは飴色の毛を持つラブラドールで、フレッドの大事な家族の一員でもありました。そしてある日、ケーゼは彼の家からいなくなってしまいました。村の人の何人かが森の中へ走って行く飴色の犬を見たと彼に伝え、同時にケーゼのことは諦めろと付け足しました。彼のパパとママも同じようなことを何度も何度も言いました。パパ達にとってフレッドは大切な一人息子ですから、あの恐ろしい黒の森の名前を彼が口にすることさえ快くは思いませんでした。けれどもフレッドにとってのケーゼだって、パパとママと同じ、大切な家族なのです。
新しい家族にドーベルマンなんてどうだ、とパパは言いました。ケーゼはチョコレート色なんかじゃない、とフレッドは答えました。
あなたの代わりになる子供なんて一人としていないのよ、とママは言いました。ケーゼの代わりだっていない、とフレッドは答えました。

その日はとてもいいお天気でしたが、背の高い木々が沢山の葉を競い合って重ねているので、森の中を進むフレッドのところまで届く光はごく僅かでした。可笑しな色の鳥が飛び立つ度、臆病な小動物が茂みを走る度、それは何か恐ろしい生き物の息遣いのようにフレッドを脅かす音となりました。
森に入ってから、一体どれ程歩いたのでしょうか。フレッドの勇気も決意も小さく細く脆くなって、目の前が涙で少し歪みだしたころ、ごうっと一度強い風が吹いて森が低く唸り声を上げました。土や葉が舞い上がってぐるりとフレッドを包みます。腕や顔にちくちくとぶつかってきます。それらから逃げ出すかのように、彼は目をしっかりと瞑ったまま走り出しました。まっすぐ、まっすぐ。実際彼が走った道はまっすぐなんて言えるものではなかったけれど、ただ自分のことだけを考えて走りました。そして彼が走るのを止めたのは、地面を押し上げてぽこんと突き出した木の根っこに躓き転んだ時でした。

服や膝についた土を払って立ち上がると、森が開けた場所がありました。緑ばかりの景色が割れて、赤や白、黄色などが広がっています。そこはお花畑のようでした。くらくらするような花の香りがします。蝶々が美しい羽根を翻し踊るように飛び回っています。
この花たちをママが見たら幾らか摘んで行って窓辺に飾りたいわ、と言うでしょう。パパは蜂蜜がどれ位できて、どれ位のパンケーキにかけられるかを教えてくれるでしょう。ケーゼはきっと尻尾を振って、そこまで考えてフレッドは悲しい気持ちを思い出しました。
ケーゼの温かくて柔らかい飴色の毛やぱたぱた揺れる尻尾が恋しくて、そっとその名前を口に出してみました。ケーゼ、ケーゼケーゼケーゼ。独り言にしては大きな声で言いました。少し離れた場所の黄色い花が揺れた気がしました。黄色と黄色の間に飴色の尻尾が見えました。そしてそれは深い緑色の森に向かって走っていつしか消えてしまいました。

走って走って走って走って。苦しくなって止まってまた走って。それを5回繰り返して大きく深呼吸した時、フレッドの横の茂みから音がしました。思わず愛犬の名前を呼び掛けてみますが、返事はありません。代わりに女の子の笑い声が返ってきました。茂みをかき分ける音が大きくなって、フレッドの前に赤い髪の女の子が現れました。さっきの笑い声はきっとこの子のものでしょう。森に入って初めて出会った人間の姿に、フレッドは驚いてほっとして、その場にぺたんと尻餅をつきました。

女の子はロートという名前で、肩までの短い髪はまるで頭巾でも被っているかのように真っ赤でした。ロートはこの森の中に住んでいると言い、フレッドはまた驚きました。村の誰もが恐れているような危険など森には無く、いたのは可愛い女の子だったのですから。ロートは自分の小屋へとフレッドを誘いました。彼はとてもお腹が減っていましたし、何よりこの可愛らしい赤い髪の女の子ともっとお話がしたかったのでそれに応じることにしました。
ロートの住む小屋はフレッドが暮らしている家に比べたらとても小さなものでしたが、木で出来た暖かみのある綺麗な家でした。琥珀色のジャムを紅茶にたっぷりと入れて、二人は沢山のお話をしました。森は優しい場所で、全然怖くなんてないということ、綺麗な野鳥の羽を拾ったこと、紅茶に入れたのは木イチゴから作ったジャムであること、ロートの話は森を恐れる村の人間からは決して聞けないことばかりでした。ロートが先日野犬に襲われ怪我をしたという話を始めた時、フレッドはケーゼのことを思い出しました。ロートを襲った野犬が飴色の毛をした大きな犬だというのですから、もしかしたらケーゼかもしれません。ケーゼは大人しい犬ですが、悪い人に噛み付いてその人を捕まえたことだってあるのです。もしその犬がケーゼであったのなら、きっとロートの真っ赤な髪に驚いて、彼女に噛み付いてしまったのでしょう。フレッドはロートにその犬が今どこにいるかがわかるかを訊いてみました。すると、ロートはくすくす笑って床板を一枚、がこりとひっくり返しました。

収納用の隙間に見えたそこには階段がありました。ここにケーゼがいるのでしょうか。ただ笑うだけのロートに続いて、フレッドは地下へ降りて行きました。 薄暗い地下室は嗅いだ事のない、とても不快な臭いでいっぱいでした。フレッドは胃がねじれるような感覚とこみ上げる胃液を必死に我慢してロートの赤い髪を追いました。
急に少し明るくなった場所でロートが立ち止まり、しゃがみ込むのが見えました。そして、お花畑で見た飴色の尻尾が彼女の腕の向こうに見えます。間違いありません。それはケーゼの尻尾です。彼女が撫でているのはケーゼです。フレッドは走り出し、そして。

うああああああ、あああ、あああああああああああっ

そして、可哀想なフレッドは見てしまいました。ロートの胸に抱かれているそれを。確かにそれはケーゼの尻尾です。後ろ脚です。前脚です。お腹です。でもその先にケーゼの頭は、顔は、耳は、ありませんでした。代わりにあったのは、フレッドの知らないニンゲンのアタマでした。男も女も子供も大人も老人も、パーツごとに継ぎ接ぎされてそこに、ケーゼの体に、繋がれていました。その生き物は、ロートの腕を離れ彼に、大好きな家族だったフレッドに、近付いて行きます。赤い髪の少女が笑います。口の端を上品に上げて、綺麗な表情で笑います。それにつられて奇形の生物の継ぎ接ぎの顔が口を開きます。ケーゼでは無い、ニンゲンの歯並びがフレッドからは良く見えます。ぐちごちごりり、嫌な音を混ぜながら、ニンゲンの言葉が聞こえます。

 いたい、いたいいたいいいいいたい、たたたたすけてたすけてたすけて、かえしてかえしてかえして、
くびからだうであしゆびかお、ころしてころしてコロシテコロシテコロシテコロシテ

それの老婆の右目と青年の左目から涙が溢れます。殺して殺してと、フレッドに迫ります。その歪な頭の向こうを、フレッドは知ってしまいます。深い赤に染まったノコギリやオノ、ロープ、テーブル。その脇には、何かだった肉の塊。そして、大きな包丁の様な物を持った赤い髪の少女が笑いながら近づいてきます。 赤頭巾ちゃんを襲った狼がどうなったか、フレッドは知っていたでしょうか。知らなかったとしてもきっとこの瞬間知ったのでしょう。そして、この瞬間に至るまでの自分を責めるでしょう。大好きなケーゼと同じ体で生きることが始まった頃に。



それから何年も何年も経った時、当時より少し発展した村の人々は、恐ろしい森を燃やしてしまおうと思い立ちました。反対する者は無く、すぐに森に火が放たれました。
三日三晩燃え続け、そして焼け跡になった森に一軒の小屋が残っていました。焦げ跡さえないそこには死体だらけの地下室があり、奇妙な形の生き物の死骸を抱くようにして倒れている少女が、正確には、黒焦げになった少女の亡骸が見つかりました。
なぜ、この小屋だけが焼け落ちず無事であったのか、そしてなぜ安全であったと思われる小屋の地下で、彼女だけが森の木々のように黒焦げであったのか、沢山の死体と、奇妙な生物は一体何であったのか、それはいつまでもいつまでも解明されることなくその村の人々に語り継がれているそうです。


魔女の森 夜な夜な行う 秘密の儀式 ガラスの部屋は誰かの棺



2008年学祭号。
ストップ、動物虐待。

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